いい日

お家で一人で読んでください。

(10)

人に会わないので1日が早い。


中沢けい『水平線上にて』を読んでいます。読んでて思ったんですが、私って本当に21歳ですか?今まで自分の年齢に疑問を持っていなかったんですけど、17歳とかの中沢先生がこの作品書いた世界と今私の眼前に広がる世界が同じだというのは、現代社会が個人主義に流れて行ってるんだという事情を加味してもおかしいと思います。ホントは15歳くらいなんじゃないですか私、だとしたら楽な人生、音楽なんて聴かないね。


「ぼんやりと頰づえをついて唇を半開きにしていると、ぽってり丸い下唇が若葉に染まりそうな春だった」って一文が結構いいなぁと感じられてブログを開きました。高校生の頃、裏アカに気に入った小説の一文をひたすら載せまくるってことをやっていましたが、高校3年間において唯一意味のあった行為だと思います。思い返してみれば、人生で季節を強く意識したことがないですね。東京生まれ東京育ち新宿をホームタウンにしていたからでしょうか。もう少し人間味のある暮らしをしていたら、「目が回りそうな春」とか「息苦しいほどの夏」とかいう表現が頭の中から湧いてきたのでしょうか。非常にもったいない人生な気もしますが、私は暇な時間が苦手なのでシティに生まれてよかったのでしょう、たぶん。


読書繋がりで他の話をしますと、町屋良平『1R1分34秒』が読みたい。芥川賞のやつです。同著者『青が破れる』が文庫化していたので読んでみたら面白かったです。しかしここで言及したいのは内容でなくてタイトルについて。『青が破れる』って個人的にスゴい唆られるんですけど、『1R〜』は全然好きじゃないです、タイトルが。おそらく共感してくれる一定層が存在すると思います。そういう人は、芥川『文芸的な、あまりに文芸的な』を積読している、『悪童日記』は読んだが『ふたりの証拠』になんとなく手が出ない、そのような経験を持っているでしょう。たぶんノンフィクションや歴史小説を好まない。人の感性がどこに依拠しているのは知りませんが、案外10パターンくらいしかないのかもしれません。万人十色、これが世界平和。終わり!

(9)

節分です。立春春一番。あけおめ。かじかんだ指で「慎太郎」ってうつと偶に間違えて「死んだらろう」って予測に出てきて嫌になる。


特に書くことがないので困っています。スマホにネタ帳ではないですが思ったことをメモしています。2019年はまだ「ビスチェ」としか書いてないです。街中で下着着てる人間の正気を疑うね。


最近ESにオススメの本の紹介をしたのでそれについて書きます。ちなみに落ちた。紹介したのは藤沢周ブエノスアイレス午前零時』、確か芥川賞受賞してた気がします。あらすじは、旅館で働く青年が田舎特有の辛気臭さ、行き詰まり感に嫌悪感を感じながらも抜け出せないでいるが…って感じです。以降ネタバレ注意です。


小説に限らず物語は全て綺麗事だと思います。機会に恵まれて、人間に恵まれて、一見して誰もが羨むような成功を手に入れる、これらは全然綺麗事じゃないです。私が思うのは、あらゆる物語はいいとこ取りであるということです。物語は根幹をなす複数の場面を連続して配置することによって作品が成立します。あまりに冗長だと娯楽としての質が下がるので取捨選択が必要になります。つまり、私たちはある種の要約を読んで心動かされています。ラブコメとか最たるものだと思いますが、キャラクターの日常のほんの一部を垣間見て恋愛はいいな、死にたいな(これは反動形成)となる。何をわかった気になっているんだ。仮にキャラクターが現実世界にいたら百倍感動してるでしょう。つまり、第三者視点での感動は、主体としてのそれ(すなわち現実)には敵わないということです。


本書についても同じことが云えるように思います。主人公はタンゴを踊る老人たちをグロテスクだと思う、しかし自分も彼らと同等だということを諦観している。私も着飾った老人たちの情熱的なダンスにはちょっと見たくない、毎日そんなものに囲まれる絶望感もわかる。でもこれは所詮共感にすら至らない小さな感想です。主人公と私の中でベクトルの方向性は一緒でも大きさは乖離している。しかし、本書の描写はそれを少しでも近づけてくれる強さがあると感じます。局所的で具体的な表現は私の共感を煽ってくれる、しかもその内容が一見して美しくない、所謂芸術性とかけ離れている(お婆ちゃんのペディキュアが云々とか書いてて何が楽しいのかわかりませんが)。


加えてオチも秀逸です。あんま詳しく書かないですけど。最後まで冷静な感じは芯が通っているように思います。持論では、駅のホームで男女が抱き合うか、校舎の窓際で美少女が黄昏れば大抵のストーリーはオチるんですが、そういったベタな雰囲気を出しながらも地に足ついてるように思う。あと太宰中期っぽいのもいいですね。反俗。


最近のエンタメ小説は起承転結の「転」が大きすぎて嫌です。何も起こらない粛々としたやつが読みたいです。終わり。

(8)

冬の空気は眉間に刺さるようで苦手。


今朝、自宅のゴミ箱に小さなチラシが捨てられていました。どこかのお店の割引券でただの紙切れだったのですが、何故か目についてしまったのです。「ワクワク券」と印字され水色とピンクによるポップなデザインは安っぽくもピュアな感じがする、にもかかわらず、それがあろうことか猥雑に丸められゴミ箱に捨てられている。こういうの見るとすごい恥ずかしくなってしまいます。ちっぽけでしょうもないモノですが企画やデザインを担当した人がこの世に確かに存在していて、彼らが、「ワクワク券」がいいんじゃないか、デザインは水色とピンクにしよう、なんて話し合っていたなんて考えたら。そこそこの人々のそこそこの時間を費やしたモノが全く相手にされていない。作り手の希望や理想(おおよそ存在するかはわかりませんがあるように思えてしまう)が受け手の無関心に一蹴されている、現代においてありふれている状況が、とても苦手です。


小学生の頃の話。塾通いの為に使っていた京王線の車内に、弁護士事務所の広告が掲載されていました。その広告に小さく「おもしろCM (HPのURL)」と記載されていたんですが、それに強烈な違和感を覚えました。何故自分の制作物をおもしろいなんて評すのか、これで下手なコメディ調だった場合、私はマジの羞恥心に苛まれる気がしてならない。以降半年くらいこのCMを見るか否かで葛藤することになります(URL暗記してしもうた)…結局見なかったんで内容はわからんのですが…。なんだろう共感性羞恥なんですがその原因はCMが面白くないことなので自分に決定権があるという。故に面白いと感じなければならないという期待を幻覚して羞恥が増してしまうスパイラルに陥ったわけです。この話割と本気で小学生の頃の一番の思い出かもね…。


この記事書きかけを補完したものでバイブス至らずあやふやになってしまいました。このブログも割引券とかCMと変わらないだろうというご指摘につきましては、別にあなたに見てほしくて書いてるんじゃないんだからね!って感じで。嗚呼恥ずかしい何もかも誰も彼もが。

(7)

今日はベンチャー企業の説明会に行ったんですが、人事の人が色抜け茶髪&カラコン(たぶん、アイプチかもわからんが)で私の心は燃え上がりました。どうみてもキャバ嬢。説明全く覚えてねぇ。


最近ゲームをしています。殆どギャルゲーみたいなものなのですが、キャラクターも科白も00年代そのもの…。なんていうか二次元!って感じなんですね、メイドキャラ(准)とかマシンガン漫才(ボケとツッコミをひたすら繰り返す会話劇)とか体言止めツッコミ(「生命の危機!」みたいにツッコミが体言止めで簡潔になされる、現実ではまず見ない)とか象徴的ですよね…。私が小学生の頃やっていたので確か2005年頃発売だったはず。時間が進む以上、今現在のトレンドがやがて時代遅れになるのは避けられません。モノ自体は不変でも貼られるレッテルは当然変わります、当たり前すぎて恥ずかしい。


私たちは普段、無意識に様々なモノに対してこのレッテル貼り、比較考量による評価を下していますが、それと同時に評価される対象、モノの側でもあります。就活なんてさいたる例なんですが。恐ろしい?のは、アイデンティティに関係する部分も可変的であるということです。例えば、現代日本人の殆どは、今この瞬間に自身を「平成人(造語すみません)」だと自覚している、だけれど3年後、5年後に新しい元号にも慣れてしまえば、平成人なんてアイデンティティは消えて無くなってしまう。更に進んで22世紀になったらどうなるか、間違いなく私は20世紀の人間として扱われると思います。20世紀末なんて知らないし、物心ついてから自分を21世紀の人間だと考えているのに、97年生まれというだけでそういう存在だと定義される。平成生まれのなんちゃらとかTVとかでおおっぴらにいってますから、まあこの流れは未来永劫変わらないでしょう。


そんなわけで私は平成の人間で、21世紀の人間で、20世紀の人間(予定)なんですが、こんなに評価が変わっていくと考えると恐ろしいですね。今はキャピキャピ大学生でさながらiPhone Xのような丁重な扱いを受けていますが、そのうち掃いて捨てられるんだろうな。まさに自業自得…。ゲームやってたら文章ヘタになった気がする…。







(6)

お裁縫とか料理とかへの憧憬が日増しに高まっています。楽器が上手なのも素敵ですが、生活が上手いのも同じくらい意味があることだと思います。


今日の昼頃、道端でおじいとおばあが4人くらいで立ち止まって横道の方をじっと見ていたので何かと思えば猫が昼寝をしていました。仮に小学生があの場にいたら同様に足を止めていたはずで、齢10にも満たない子どもと70.80を超える老人が殆ど同じ行動を取るであろうシチュエーションはなかなか奇っ怪にも思えます。感受性というものは一生衰えないのでしょうか。でも年寄りになっても今と同じくらい無為や死が恐ろしいと感じてしまうのは間違いなく人間構造の欠陥だと思いますが…。


大学生になってから「最近なんかあった」的な質問によく直面するのですが、なんもないので悲しくなってしまいます。太郎くんも全く同じことを云っていたので案外みんなそんなもんなんだと安心(失礼すぎるけど)してしまうのが本当にしょうもないと反省しました。この手の会話の動き出しが増えたのも偶に会う知り合いが増えたからで、活動範囲が広がったと考えたら悪くはないのかな。それとも私の会話能力が低いからなのか、下手の横好き。SNSとかいう「なんか」で構成された文化のおかげでなんもない時間が反面色濃く見えるって無限回云ってますけど、考えてみれば在否を比較で捉えるのはおかしいですねすみませんでした。無限回とか3億円とか114514とか数字の誇張は現代日本の数少ないオリジナルカルチャーだと勝手に決めつけていたのですが、読みかけの村上春樹訳(選だったかもしらん)の50年代アメリカボーイミーツガール小説にやたら100億回とか10万回とか出てきたので、これってもしかしてアメリカ発という可能性が出てきました。もし若者らしさを演出するためのアドリブだとしたら天才的ですね。

(5)

早稲田大学中南米研究会様、55周年おめでとうございます。今後ますますのご発展をお祈り致しております。


最近、インターンシップなるものに時々行くのですが、まあ何も喋れない。前にも書いた気がするけど、21歳の成人男性が喋れない様は哀れ極まり、慈悲深い人なら100円くらい募金してくれそうだ。そうして集まったお金で俺は啓発本を購入し、それは本棚の肥やしになり、終いには飼い犬に齧られて開かなくなる。啓発本読んで人生変わる人はどんな人生送ってきたんだ。数十万の文字列に自分を左右されたくはない。読書に暇つぶし以上の何かを見出せるのはとても頭が良い人間だけだと思う。


毎回々々思うのは、みんな話すの早すぎる。俺の考えがまとまる前に話し出して、さあ云うぞって時には結論が出ている。嫌になるね。それでいい感じになってるならいいんだけど、大体スゴいことになってる(オリックスインターンで「この企業に対する最善の提案は?」みたいな課題が出たんですが、2グループくらいオリックスバッファローズとコラボすると答えていてとても面白かった)。再考とかしないのん?俺も痛感しているけれど、大学生になってから思考が死んでいる。考えることができない、思いつくことがない。考えなくても怒られないもんね、自由すぎてどんどん不自由になってる。勘弁してくれ。


推測に過ぎないけれど、人間誰しも一度は自身の無教養に絶望するときがあると思う。自分が如何にしょうもないか知る機会に誰もがありつける。そのときが来れば、俺も本を読み漁って映画にハマって美術館の全集を追いかけるようになる気がする。その後はきっと大丈夫。思考を取り戻すのだ。その瞬間までおやすみ!!!


昨今の教養最強理論マジで死に絶えた方がいい。



星里もちる 『光速シスター』

マンガです。SFラブコメです。全3巻で読みやすい。雑誌を買わない単行本派なのもあって、やっぱりマンガは短いのに限る、という感じ。半年前くらいに古本で1.2巻を購入し読んだのですが、あまり本屋のコミックコーナーを覗かないため間が空いてしまい、本日3巻を読み終えました。アマゾンってやっぱ便利。以下あらすじ。

ドラマの聖地巡りをしていた三谷くんは突如現れた謎の飛行物体に激突し、意識が途切れる。目を覚ますとそこは自宅のベッドの上。しかし、隣には見覚えのない女の子。彼女は妹のハナを名乗るが…。

みたいな。

短中編のラブコメは所謂日常回がないのでとってもサクサク読めます。個人的にキャラに入れ込むタイプではないのでありがたい。全体として、3巻前半の展開にやや違和感を覚えるものの、とても綺麗にまとめられていると思う。余分な部分がないのは言ってしまえば淡白なんだけれど、それ故に飽きがこない、読後感も良い。内容もある程度お約束な感じですが、言い換えれば期待通り。とっても良い作品でした。キャラクターメチャ可愛い短中編大好き。