いい日

お家で一人で読んでください。

(13)

f:id:tadanonatsu:20200209042002j:plainバンコクに行ってきました。来月はロンドンに行きます。ちゃんと卒業できるのかよくわからないけれど、頑張ります。


バンコクも東京とあんまり変わらないだろうと行く前に思っていて、実際だいたい一緒なのですが、方向性が予想と違ってました。中心部に渋谷新宿池袋みたいな摩天楼がポコポコ建っているのみでなく、郊外(中心以外)の東京西部らしさたるや。彩度を変えてショッキングな色合いになった立川とか八王子みたいな街並みが広がっていました。高い建物から眺めた感想なので、実際に街を歩くと全然違うとは思うのですが、目新しさが意外となかった。


円蓋の天井(正しい日本語ですか?)がエメラルドグリーンなお寺があって、ホントに日本人しかいなくてしょうもなかったんですが、十何年か前に建てられたばかりのお寺らしいことに驚きました。日本の感覚だと、宗教系の大きめの建築物は保存はすれど新たに建てることは殆どないように思うので、国民性、宗教意識の違いを感じました。そのお寺もバカみたいなグリーンの照明(新しいお葬式場にありそうな)を設置して表面的なフォトジェニックを演出しているのですが、一応インバウンド目的の観光施設ではないので、寺として、仏教としてこれが正しいと考えて造ったと思われます。ピカピカさせると気持ちいいって発想は500年くらい前からあって(電飾の生みの親はルターらしい)、現代社会において最も乱暴に扱われている手法なのに、それを寺に組み込むのか、しかもエメラルド?みたいな疑問を覚えずにはいられないのを堪えて、よくよく考えてみると、別に安易な美しさが悪いわけでもない。バンコクの王宮とかもだいたい金ピカか真っ白かガラスが光の反射でピカピカしてるかのどれかなのですが、実際綺麗だし、昔は金の折り紙好きだったし、ワビサビみたいな深そうな美しさに毒されすぎてたと思いました。バンコクは寺でもなんでも絶対コンセントあるし、色が剥げてきたら塗り直してるし(たぶん)、昔の涅槃仏像に新しいめちゃくちゃ雑に作っただろう黄色の布かぶせてるし、新しい物が大好きなんだろうなって感性がとてもよかったです。どういう風にまとめようとしたか忘れた。金色の布買うの忘れたことを今思い出した。


そんで、王宮って短パンだと入れないらしく、私はクロップド丈のズボンを履いてしまってたので、物売りに700円くらいでサルエルパンツを買わされたんですが、結局、クロップド大丈夫で普通に騙されたみたいなことがありました。お金はおっさんに寄付したと考えて忘れようと思ったのですが、やっぱり私はどこか心の奥で途上国(かもよくわからないですが)の下層の物売りみたいな人を蔑んでいるんだなと感じました。一方で、おっさんもバカな観光客をいいカモだと軽蔑してるはずで、お互いにお互いを下だと思っている状態は、頭の悪いウェイと頭の悪いインキャの関係性みたいでおかしいですね。側から見るとマヌケなので脱却したいと思いました。方法はわかんないけど。


(12)

令和だね。書くよ。れいわと打っても変換されない。iPhoneも令和になった実感がないらしい。




昨日はブックファースト新宿店に行った。俺が中学生の頃ずっと居た場所で、3年間で8万円くらい費った気がする。メインの出入口から入ってすぐが雑誌コーナーなのだが、妙に汗臭かった。なんとなく落胆しながら右のほうに進むと文庫・単行本コーナーがある。そこは棚の配置が変わったくらいで記憶と相違はなかった。以前は官能小説のコーナーで立ち読みしているおっさんの精神に一目置いた、というべきかなんというか、見習うべき一側面があるのではないかと思ったりしていた。羞恥心の強い人間ですので。行動に移す前から結果に思い至ることがないので意味がない性質ですけれど。


文庫・単行本コーナーの反対側、すなわち出入口の左側はなかなかの変貌ぶりをみせていた。レジ前には高級万年筆やらセカンドバックやら、はては海の音がする?インテリアまでが点在し、お洒落というかキザな雰囲気だった。その奥は以前美術書コーナーだったのに、TOEICとか横文字がたくさん並んでいて、人が溢れかえっていた。なんのこっちゃ。


漫画コーナーは少し離れたところにあるのだが、ここが本当に変わっていなかった。入った瞬間から記憶の通りの匂いがして少し感動してしまった。グルグル周ってみたが配置も変わっていない。きわめつけは月ごとの新刊情報が載っている黄色いチラシが全く同じ場所に掲出されていたことだ。A1サイズくらいの大きいもので最近は本屋で見かけなくなった(目に入っていないだけか)のだが、変わらず存在していた。それだけで訪れた意味があるような気がする、嬉しかったです。シティーなオタクの郷愁は、大型本屋に向かう。


話変わります。さっき『この世界の片隅に』観てしまった。こうの史代の作品で『ぼおるぺん古事記』というのがありまして、中学の古典の授業で教材として一部を読んだのです。それがなかなか面白かったのでいくつか作品を読んだことがあったのだが、『この世界の片隅に』は漫画も映画も何故かみなかった。


仔細なら感想は書かないのだが、こうの史代の作品はとにかく「未完」的感覚が強いと思う。作品が終わってもキャラクターの人生は続いているような気にさせてくれる。短編が多いのも理由の一つなのだろうが、俺はここに「生活感」なるものを見出したい。


最近こうの作品読んでおらず曖昧な記憶とイメージが頼りになってしまうので自分の意見のみ書きます。作品における生活感とは、俺が思うにキャラの死までを想起させられるかだと思う。少年漫画の主人公とかは永遠に冒険してそうだし、ずっと高校生のままのような印象を受けるけれど、これとは真逆の感触を受け得るものである。そしてそこから発展して、観者が自身の死に気づく(思い出す)ことができればそれは一流の作品なのだろう。だから読後感(映画の場合はなんて言えばいいんでしょう)に寂しさ、寄る辺なさが混じってしまう。そして最後に、生きている実感を得る。この点『この世界の片隅に』は鬱々としない、清々しい終わり方をしてくれるので、体をなしていない戦争への感情でなく生の実感を存分に与えてくれる。


生活ってことばの良さに久々に気づかされてしまった。小学校低学年の頃、「せいかつ」って授業あったけれど、何をしていたのか全く思い出せない。昔から知っていることばだから魅力に気づきにくいというか具体性を持たせるのが難しいけれど、今この瞬間が生活だって忘れないように生きなければいけないですね。これfilmarksにも書いたけど我ながらいいこと言ってるから2回書いちゃった。filmarksと読書メーターのアイコンが原田知世なんですが知らん人が女だと思ってイイネしてきてる節ある。

(11)

就職活動は「やりたくないことをやらない」為に存在するのだ。


今日、太郎くんと(ノルマ)話してて前に書いた「教養至上主義ダメダメよ」みたいなことの話になりまして。前提としてまず云いたいのは、「教養という物差しで他人をはかる」ことをここでは指していて、「自身の付加価値として教養を求める」ことではないです。教養にアイデンティティを求める行為は非常に簡潔明快で良いと思います、成金は美術品を買い漁りがちだし。ビジネスが教養を含有しなくなったとか、太郎くんは良いことを云っていたのでもうちょいちゃんとお喋りしたかったけれど、中途半端になってしまった。私自身は頭の回転は遅いので、時間をかけて話を進めたい派です。


大門駅の出口目の前の交差点の既視感がスゴい。初めて見たけど、たぶん100回くらい見たことある。神社とか富士山じゃなくて、大門駅出口前交差点こそ日本を表象しているのではないだろうか。ジャパン・クオリティ、私はあの雰囲気が堪らなく好きだ、安心する。嗚呼、母なる大門駅出口前交差点。


3/31。たぶん気分的には平成最期です。だから書いた。正味自分でもよくわからない文章になった。でもブログってマジで意味不明なの多い、アイドルとか市川海老蔵とか。

特にやり残したことはないです。俺は未来を生きるよ、モテモテになって。俺の彼女は近未来。

(10)

人に会わないので1日が早い。


中沢けい『水平線上にて』を読んでいます。読んでて思ったんですが、私って本当に21歳ですか?今まで自分の年齢に疑問を持っていなかったんですけど、17歳とかの中沢先生がこの作品書いた世界と今私の眼前に広がる世界が同じだというのは、現代社会が個人主義に流れて行ってるんだという事情を加味してもおかしいと思います。ホントは15歳くらいなんじゃないですか私、だとしたら楽な人生、音楽なんて聴かないね。


「ぼんやりと頰づえをついて唇を半開きにしていると、ぽってり丸い下唇が若葉に染まりそうな春だった」って一文が結構いいなぁと感じられてブログを開きました。高校生の頃、裏アカに気に入った小説の一文をひたすら載せまくるってことをやっていましたが、高校3年間において唯一意味のあった行為だと思います。思い返してみれば、人生で季節を強く意識したことがないですね。東京生まれ東京育ち新宿をホームタウンにしていたからでしょうか。もう少し人間味のある暮らしをしていたら、「目が回りそうな春」とか「息苦しいほどの夏」とかいう表現が頭の中から湧いてきたのでしょうか。非常にもったいない人生な気もしますが、私は暇な時間が苦手なのでシティに生まれてよかったのでしょう、たぶん。


読書繋がりで他の話をしますと、町屋良平『1R1分34秒』が読みたい。芥川賞のやつです。同著者『青が破れる』が文庫化していたので読んでみたら面白かったです。しかしここで言及したいのは内容でなくてタイトルについて。『青が破れる』って個人的にスゴい唆られるんですけど、『1R〜』は全然好きじゃないです、タイトルが。おそらく共感してくれる一定層が存在すると思います。そういう人は、芥川『文芸的な、あまりに文芸的な』を積読している、『悪童日記』は読んだが『ふたりの証拠』になんとなく手が出ない、そのような経験を持っているでしょう。たぶんノンフィクションや歴史小説を好まない。人の感性がどこに依拠しているのは知りませんが、案外10パターンくらいしかないのかもしれません。万人十色、これが世界平和。終わり!

(9)

節分です。立春春一番。あけおめ。かじかんだ指で「慎太郎」ってうつと偶に間違えて「死んだらろう」って予測に出てきて嫌になる。


特に書くことがないので困っています。スマホにネタ帳ではないですが思ったことをメモしています。2019年はまだ「ビスチェ」としか書いてないです。街中で下着着てる人間の正気を疑うね。


最近ESにオススメの本の紹介をしたのでそれについて書きます。ちなみに落ちた。紹介したのは藤沢周ブエノスアイレス午前零時』、確か芥川賞受賞してた気がします。あらすじは、旅館で働く青年が田舎特有の辛気臭さ、行き詰まり感に嫌悪感を感じながらも抜け出せないでいるが…って感じです。以降ネタバレ注意です。


小説に限らず物語は全て綺麗事だと思います。機会に恵まれて、人間に恵まれて、一見して誰もが羨むような成功を手に入れる、これらは全然綺麗事じゃないです。私が思うのは、あらゆる物語はいいとこ取りであるということです。物語は根幹をなす複数の場面を連続して配置することによって作品が成立します。あまりに冗長だと娯楽としての質が下がるので取捨選択が必要になります。つまり、私たちはある種の要約を読んで心動かされています。ラブコメとか最たるものだと思いますが、キャラクターの日常のほんの一部を垣間見て恋愛はいいな、死にたいな(これは反動形成)となる。何をわかった気になっているんだ。仮にキャラクターが現実世界にいたら百倍感動してるでしょう。つまり、第三者視点での感動は、主体としてのそれ(すなわち現実)には敵わないということです。


本書についても同じことが云えるように思います。主人公はタンゴを踊る老人たちをグロテスクだと思う、しかし自分も彼らと同等だということを諦観している。私も着飾った老人たちの情熱的なダンスにはちょっと見たくない、毎日そんなものに囲まれる絶望感もわかる。でもこれは所詮共感にすら至らない小さな感想です。主人公と私の中でベクトルの方向性は一緒でも大きさは乖離している。しかし、本書の描写はそれを少しでも近づけてくれる強さがあると感じます。局所的で具体的な表現は私の共感を煽ってくれる、しかもその内容が一見して美しくない、所謂芸術性とかけ離れている(お婆ちゃんのペディキュアが云々とか書いてて何が楽しいのかわかりませんが)。


加えてオチも秀逸です。あんま詳しく書かないですけど。最後まで冷静な感じは芯が通っているように思います。持論では、駅のホームで男女が抱き合うか、校舎の窓際で美少女が黄昏れば大抵のストーリーはオチるんですが、そういったベタな雰囲気を出しながらも地に足ついてるように思う。あと太宰中期っぽいのもいいですね。反俗。


最近のエンタメ小説は起承転結の「転」が大きすぎて嫌です。何も起こらない粛々としたやつが読みたいです。終わり。

(8)

冬の空気は眉間に刺さるようで苦手。


今朝、自宅のゴミ箱に小さなチラシが捨てられていました。どこかのお店の割引券でただの紙切れだったのですが、何故か目についてしまったのです。「ワクワク券」と印字され水色とピンクによるポップなデザインは安っぽくもピュアな感じがする、にもかかわらず、それがあろうことか猥雑に丸められゴミ箱に捨てられている。こういうの見るとすごい恥ずかしくなってしまいます。ちっぽけでしょうもないモノですが企画やデザインを担当した人がこの世に確かに存在していて、彼らが、「ワクワク券」がいいんじゃないか、デザインは水色とピンクにしよう、なんて話し合っていたなんて考えたら。そこそこの人々のそこそこの時間を費やしたモノが全く相手にされていない。作り手の希望や理想(おおよそ存在するかはわかりませんがあるように思えてしまう)が受け手の無関心に一蹴されている、現代においてありふれている状況が、とても苦手です。


小学生の頃の話。塾通いの為に使っていた京王線の車内に、弁護士事務所の広告が掲載されていました。その広告に小さく「おもしろCM (HPのURL)」と記載されていたんですが、それに強烈な違和感を覚えました。何故自分の制作物をおもしろいなんて評すのか、これで下手なコメディ調だった場合、私はマジの羞恥心に苛まれる気がしてならない。以降半年くらいこのCMを見るか否かで葛藤することになります(URL暗記してしもうた)…結局見なかったんで内容はわからんのですが…。なんだろう共感性羞恥なんですがその原因はCMが面白くないことなので自分に決定権があるという。故に面白いと感じなければならないという期待を幻覚して羞恥が増してしまうスパイラルに陥ったわけです。この話割と本気で小学生の頃の一番の思い出かもね…。


この記事書きかけを補完したものでバイブス至らずあやふやになってしまいました。このブログも割引券とかCMと変わらないだろうというご指摘につきましては、別にあなたに見てほしくて書いてるんじゃないんだからね!って感じで。嗚呼恥ずかしい何もかも誰も彼もが。

(7)

今日はベンチャー企業の説明会に行ったんですが、人事の人が色抜け茶髪&カラコン(たぶん、アイプチかもわからんが)で私の心は燃え上がりました。どうみてもキャバ嬢。説明全く覚えてねぇ。


最近ゲームをしています。殆どギャルゲーみたいなものなのですが、キャラクターも科白も00年代そのもの…。なんていうか二次元!って感じなんですね、メイドキャラ(准)とかマシンガン漫才(ボケとツッコミをひたすら繰り返す会話劇)とか体言止めツッコミ(「生命の危機!」みたいにツッコミが体言止めで簡潔になされる、現実ではまず見ない)とか象徴的ですよね…。私が小学生の頃やっていたので確か2005年頃発売だったはず。時間が進む以上、今現在のトレンドがやがて時代遅れになるのは避けられません。モノ自体は不変でも貼られるレッテルは当然変わります、当たり前すぎて恥ずかしい。


私たちは普段、無意識に様々なモノに対してこのレッテル貼り、比較考量による評価を下していますが、それと同時に評価される対象、モノの側でもあります。就活なんてさいたる例なんですが。恐ろしい?のは、アイデンティティに関係する部分も可変的であるということです。例えば、現代日本人の殆どは、今この瞬間に自身を「平成人(造語すみません)」だと自覚している、だけれど3年後、5年後に新しい元号にも慣れてしまえば、平成人なんてアイデンティティは消えて無くなってしまう。更に進んで22世紀になったらどうなるか、間違いなく私は20世紀の人間として扱われると思います。20世紀末なんて知らないし、物心ついてから自分を21世紀の人間だと考えているのに、97年生まれというだけでそういう存在だと定義される。平成生まれのなんちゃらとかTVとかでおおっぴらにいってますから、まあこの流れは未来永劫変わらないでしょう。


そんなわけで私は平成の人間で、21世紀の人間で、20世紀の人間(予定)なんですが、こんなに評価が変わっていくと考えると恐ろしいですね。今はキャピキャピ大学生でさながらiPhone Xのような丁重な扱いを受けていますが、そのうち掃いて捨てられるんだろうな。まさに自業自得…。ゲームやってたら文章ヘタになった気がする…。