『ザ スクエア 思いやりの聖域』

よくわからない映画だったので文字に起こして考えをまとめます。

現代芸術を扱う美術館のキュレーターである主人公がひょんなことからスマホと財布をスられてしまうっていう始まり。現代社会風刺みたいな内容で間違いないと思う。

複数の物語を同時に進行させるやり方で、場面はトビトビ、最近の映画あるある。正直、よくわからなくなる。

そもそも現代芸術って大半がアンチ現代社会みたいな感じで(たぶん!)、その点においてスクエアも希薄になっていく人間関係に警鐘を鳴らそうとするアートとして登場した?しかし、アートをアートたらしめるには人々に認知されることが必要であり、現代社会を批判するスクエアを極めて現代的な方法で喧伝する矛盾が表面的に見てとれる。ホントに表面的すぎて書くほどでもないね。

現代社会はあらゆるものが明確に理解できるようになった。EDMとか代表的な例か。現代芸術はそれに対して不明確である。なんでもないものでとんでもないものを訴える。でも一般的や現代人はわかりやすいものに慣れすぎて、それらを理解しようとしない。主人公もその一人だが、キュレーターという立場上、理解と共感を示さなければならない。そのためにトリセツを読み上げるのだ。このアートはこういうことを云いたいのだと書かれた原稿に対し共感する。個人と全くかけ離れた主義思考を口から吐き出すのだ、アートとは個人に向けられるものであるにもかかわらず。そもそも現代芸術が一般に公開されるべきシロモノかというところに疑問を覚えるのだが。

アイヤイヤーモンキーマンのシーンは怖かった。これはアートだと言い張ればどこまで許されるのか。自分を文化人だと考える人々は目の前で繰り広げられるコンテンポラリなアートらしきものを許容しようとするが、やがて目的は自身の安全にすり替わり、遂には決壊する。ホントにああいうの観てて嫌になるからやめてほしい。

物乞いを辱めたことを批判する集合の正義と、少年が名誉をきずつけられたことに怒る個人の正義に優劣はあるか?キュレーターとして色々語ってた主人公が、眼前に存在する一人の弱者を相手にしないという矛盾がわかりやすく存在するが、それだけじゃないだろう。うまく言葉にできないなぁ。

結局は社会的な側面と個人的な側面を持つことを回避することは不可能である。赤ん坊が会議中に泣きだしてもそれを咎めないよう強制する。しかし、それを不快に思うことは許してもいいだろう。公の場で個人の意見を宣言することはとても恥ずかしい。それでもそれは悪いことじゃないと思う。

よくわからねぇ。